私とは何か

15日とあと少しで2018年も終わる、となるとそろそろ総括し始めないとなと思う次第ですが、今年読み1番良かった本は後輩が貸してくれたこちら。(昨年は君たちはどう生きるかがよかった)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

平野啓一郎といえば、小説「マチネの終わりに」を読んだことがあったくらいで、美しいけど小難しい小説を書く人だな、という認識だった。さてこの本の概要を纏めると以下の通り。

これまで「個人」とは最小単位として分けられないものとされているが(肉体は一つだし確かに物理的に分けられない)、私たちの人格は分けられるのではないか、それを分人という単位を用いて私とは何かを考えて見よう、と少し哲学的な本。

人間は、対人関係ごとに見せる複数の顔があり、相手によって言い方も変わるしキャラも変わる。でもこれは相手に合わせ演じ分けているんだろうか、「本当の自分」はその中の一つにいるんだろうか。いや、私たち人間は相手次第で自然と様々な自分になり、その他者との関係から生まれる分人の全てが「本当の自分」と捉えることが出来るのではないか。つまり私たちは「分人の集合体」として存在していると言え、誰と付き合うかで、分人の構成比率は変化し、その総体が自分の個性となる。

私たちは複数の分人を生きているからこそ精神のバランスを保てている。人間はたった一度しかない人生で出来ればいろんな自分を生きたいと思うため、だから小説や漫画の主人公に感情移入し、それは「変身願望」の表れと言えるだろう。

愛は関係の継続性が重要とされる概念だが、愛を持続させるにはよく恋の状態を延命させ新鮮さを保ち続けるために自分を磨く等双方の献身が釣り合っている状態を理想とする、といわれる。ただ何年も関係性を継続する上でその状態を維持し続けるのは辛いのではないか。だから「愛」とは「その相手といる時の自分が好き」、「その相手といる時間が居心地がいい」と自分目線で考え、そんな心地いい自分を引き出してくれる相手を愛おしく思えること、それが人を愛することだと定義できるのではないか。 

本の中では平野さん自身の実例を挙げながら説明していて非常に分かりやすく、上記の考え方にはいずれも共感できる。例えば、私のある一面をとって他人から私の本質を規定するような発言を受けるとすごく不愉快になる。その一面は間違いなく私を表すものだけど当然それだけじゃない。平野さん自身も「私たちは他人から自分のある一面をとって矮小化されることがすごく不安になる」と書いている。

本当の私はなんだろうとは誰しもが考えることだけど、全ての分人が私なんだと思う概念は人を楽にさせるし、余計な悩みが1つ消える。そしてその概念を取り入れると他者に対しても穏やかな目で見ることができる、というのは私達が知りうる他者の一面は私に対する分人だけ、と捉えることが出来るからだ。そして私の一つの分人がうまく機能してなくても他の分人もあるから決して自分を全否定しなくていいという気でもいられる。

この本を読み、ああ本当その通りだ・・と何度も声を出てしまうほどだった。でも私が小説家だったら平野さんみたいなこんな考え抜く小説家がいると絶対彼よりもいい文章書けないなと思っちゃうかも。

最近この軽めな本も読んだ。

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

 

人間の幸福には2つあって、1つ目は自己充実、自己実現と呼ばれるもの。2つ目は他者との交流。さらにそこから2つに分けられ、交流そのものの喜び(例えば相手と共有している時間そのものが幸せの状態)と、他者からの承認(人から認められる歓び)がある。

そもそも他者とは自分とは異なる性質を持つ異質性がある存在であることを理解し、脅威の源泉にも歓びを与えてくれる存在でもある。脅威にも歓びにもなる点に、我々は振り回されるのである。私たちは他者に同質的共同性を求めがちであるが他者は上記のような属性を持つものであり並存性の意識を持たなければならない。

友だち幻想という名の通り、みんな仲良しこよしなんてありえないんだよ、みんな違うんだから、でもそれを知った上で共存していこうよ、とそんな本です。中高生の閉鎖的な空間の中では異質的な人はどうしても排除されるんだろうな、というのは実体験からも分かる。